「良いのに疲れる」ことの正体は、情報量だけじゃなかった

良い情報なのに、なんか疲れる。

そういう感覚、ないですかね?

コミュニティの案内とか、
メルマガとか、
LINEで届く勉強会の告知とか。

内容は良いし、効果もある。
役立っているとも分かっている。

でも、なぜかじわじわ疲れてくる。

最初は「情報量の問題かな」
と思っていたんですよ。
インプットを減らせば解決する、
みたいな。

でも、よくよく観察してみたら、
それだけじゃなかった。

目次

「良いのに疲れる」という妙な感覚

ジャンクな情報を処理するのは、
まあ疲れる。
当然ですよね。

読む価値ゼロの通知、
不安を煽るタイトルのメルマガ。
そういうのを無理に処理すれば消耗する。

でも今回感じていたのは、
それとはちょっと違う疲れで。

「これ、効果あるよね」
「役立つよね」

と分かっていながら、でも疲れている。

なんで?ってずっと考えていたら、
少しずつ輪郭が見えてきたんですよね。

突発的にポンと降ってくる案内

ある時期、僕がけっこう
熱を入れていたコミュニティがあって。

ツール自体は良い。学べることもある。
でも、セミナーや講座の案内が
LINEでしょっちゅう届いてくるんですよ。

毎週のように新しい企画が来て、
毎月のようにイベントがある。
突発的に、ポンと降ってくる。

そのたびに
「これ、参加すべきか?」って考える。
コメント欄を見て「次どうしよう?」
って判断する。
費用のことも考える。
スケジュールのことも考える。

いつも「今は凄い時期だ」
「今だけ特別」みたいな感じで、
どんどん展開していく。
それはそれで熱量があって、
良さでもあるんですけど。

実際、このコミュニティから得られた
気づきや成果はあった。
だから切るとも言えない。
残すと言っても疲れる。

……で、ある日気づいたんですよ。

あ、これ、注意力と判断力を
じわじわ削り取られてるんだな、って。

一回の判断は軽い。でも積み重なると重い

時間もお金もかかるのは
そうなんですけど、
それだけじゃなくて。
注意を向けることや
判断すること、そのものに、
コストがかかるんですよね。

一回の判断は大したことない。
「今回の企画は参加するかどうか」を
10秒で決めたとしても、
その10秒は、
意思決定のエネルギーを使っている。

でも、それが毎週・毎月、
積み重なっていくと、
気づいたらぐったりしている。

しかも厄介なのが、
内容自体は良いものだから、
これは切っていい、
という判断がしにくいんですよ。

ジャンクな情報なら「要らないな」
でスパッと切れる。
でも「良いものかもしれない」となると、
判断が止まらなくなる。

参加しなかったら損するかも、
という感覚が、ちょっとだけ顔を出す。
見送ったら、後で後悔するかも、
という思いが、もう一度引き戻す。

……そこで、また判断コストが積み重なっていく。

認知資源を削り取られまくるから疲弊するのかも。

注意を向けること自体にコストがかかる、
と気づくと、
なんかすごく腑に落ちた感じがしました。

疲れの正体は「情報量」だけではなかった

で、もう一つ気づいたことがあって。

それが
「自分がコントロールできていない」
という感覚で。

情報が来るタイミング、
案内の頻度、
次の企画の展開。

全部、相手側のペースなんですよ。

自分はそのペースに合わせて、
反応しているだけ。

情報の量が少なくても、
ペースを相手に握られていると疲れる。

逆に量が多くても、
自分のペースで取捨選択できていれば、
それほどしんどくない。

「疲れの原因は情報量」という仮説、
なんとなく当たり前だと思っていたんですが、
案外それだけじゃないかもしれないですよね。

疲れの核にあるのは、
「判断のタイミングを他人に握られている」
という構造だったのかもしれない。

これ、真面目に頑張っている人ほど
ハマりやすい罠だと思うんですよ。

「良いものだから」「効果があるから」って、
自分に言い聞かせて切れない。
でもその「切れない」という判断の保留自体が、
じわじわ認知資源を食っていく。

同じ情報が多い状態でも、
自分のペースで取り込んでいるときは楽しい。
自分のペースじゃないときは、
同じ量でもしんどい。

その差は、情報の量や質じゃなくて、
誰がペースを決めているか、にあった。

振り回されるのが嫌で起業した、はずだった

この、ペースを握られる感覚は、
コミュニティや情報だけの話じゃないんですよね。

「振り回されるのが嫌で起業したのに、
こんな感じで振り回されてしまうんだったら本末転倒」

ある日の日誌に書いた一文です。

サラリーマン時代の窮屈さ。
誰かのスケジュールに合わせて動き、
突発的な依頼に対応し、
自分のペースで仕事できない感覚。

それが嫌で独立したはずなのに、
気づいたら似たような構造に入り込んでいた。

相手が上司から、
コミュニティや情報の発信者に変わっただけで、
「誰かのペースで反応し続ける」という構造は
変わっていなかった。

……なかなか皮肉だなと思って。

もちろん、コミュニティ自体は良いものだし、
発信者さんを責めているわけじゃないんですよ。
向こうは誠実に届けようとしている。

ただ、受け取る側の自分が
ペースを握れているかどうか、
というのは、別の問いなんですよね。

情報は「発酵」しないと消化されない

じゃあ、どうするかっていうと。

僕の中から出てきたイメージが、
「発酵」なんですよ。

情報って、受け取っただけでは
消化されていないんですよね。

インプットしたことが、
時間の中でじわじわと自分の中で熟成されていく。
読んだ本が、ふとした日常のシーンで
ああ、これはあのことだ、と繋がる。
聞いた話が、三ヶ月後に突然腑に落ちる、
なんてこともある。

そういう発酵のフェーズって、
静かな時間がないと起きないんですよ。

次々と新しい情報が来て、
次々と判断を迫られていると、
発酵する余地がない。
情報は積み重なっていくけど、
消化されていない。

体の消化に例えるなら、
胃が消化する前に
また次を詰め込み続けている状態、
みたいな。

良質な素材を取り込んでいるのに、
消化されていないから栄養にならない。
疲弊だけが積み重なる。

それが「良いものだと分かっているのに疲れる」
という感覚の正体
なんじゃないかと思うんですよね。

頭でわかっているのと、
実際に体験してみるのとでは、
やっぱり違って。

自分がその
発酵を妨げられた状態になってはじめて、
「ああ、これが消化不良か」と
腑に落ちた感じがありました。

「切るか残すか」より前にある問い

そう考えると、情報との付き合い方として、
「切るか・残すか」という二択の前に、

「自分のペースで付き合えているか?」
という問いが
先にあるんじゃないかなと。

遮断することが目的じゃなくて、
自分のリズムで情報と向き合えること。

ペース感覚を取り戻すのは、
案外シンプルな話で。

たとえば、LINEやメルマガの
通知を見るタイミングを、
「相手が送ってきたとき」から
「自分が見たいとき」に変えるだけで、
だいぶ変わる気がする。

コミュニティから距離を置くことが
もったいないと感じても、
発酵する時間がなければ、
インプットは積み重なるだけで
熟成されないかもしれない。

しばらく離れてみるというのは、
断捨離じゃなくて、
発酵のための時間を
確保することだったりする。

これが正しいかどうかは
分かりません。
でも少なくとも、
疲れているなら情報を遮断すればいい、
そんな単純な話でもないんじゃないかな、
とは思うんですよね。

おわりに

ペースを握られる。
判断を積み重ねる。
その積み重ねが、
どこかで「疲れ」になって現れてくる。

もし今、「有益だと分かっているのに疲れる」
という感覚があるなら、
それは自分の頑張りが足りないんじゃなくて、
判断のペースを握られている
構造のせいかもしれない。

情報を遮断する必要はなくて、
「自分のリズムで発酵させる時間」を
取り戻すだけで、
けっこう景色が変わるんじゃないかなと。

……まあ、僕自身も
まだ実験中なんですけどね。

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