「何の意味があるの?」と自分にブレーキをかけてしまう本当の理由

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「何の意味があるの?」と自分にブレーキをかけてしまう謎

パソコンに向かって
黙々と作業をしながら、
ふと手が止まる瞬間があります。

こんなことをやってて、
一体何になるんだろう?って。

僕はここのところ、
Xでポストをつくったり、
スタエフで喋ったり、
ブログを書いたりと、
また発信活動をあれこれ再開しているんですね。

でも、作業に没頭している途中で、
急に我に返ってしまうんです。

この発信、
本当に誰かの役に立ってるのかな……。
そもそも、読んだり聴いたりしてくれる人って
いるんだろうか?って。

不思議なのは、
何にもならないかもしれないのに、
なぜか定期的に
発信したい、っていう衝動が起きてくること。

そして、やり始めて少し経つと、
また定期的に
こんなことやってて意味あるのかな?って
疑問が湧いてくること。

これまでは、
ずっとこのサイクルの繰り返しでした。

なぜ僕たちは、
自分がやりたくて始めていることなのに、
すぐにそれ、意味あるの?
誰の役に立つの?と
自問自答しては、
自分でブレーキをかけてしまうのでしょうか。

「何もしないこと=罪」という、見えない呪縛

最近、なぜこんなにも
「意味」とか「役に立つかどうか」を
気にしてしまうんだろうと、
過去の日誌をAIに振り返ってもらったんです。

すると、どうやら僕の根っこには
何かしら役に立たないと、
自分の存在が許されないんじゃないか、という
すごく強い刷り込みが
あるみたいなんですよね。

子供の頃、僕の実家は兼業農家でした。

だから、両親も祖父母も、
毎日毎日、本当に働きづめだったんです。

「肩が痛い」とか「腕が痛い」とか言いながら、
それでもずっと休まずに働いていました。

子供の頃からそういう大人の姿を
ずっと見て育ってきたから。

親や祖父母は
別に僕を縛ろうとしたわけじゃないと
思うんですけど、
僕自身が勝手に、
何もしないことは許されないんだ、って
受け取ってしまったんですよね。

その刷り込みというか、
呪縛みたいなものが、
大人になった今も
自分の中に残っていて。

「何もしないこと=罪」であり、
「役に立たない=存在が許されない」。

何かをしていないと、
誰かの役に立っていないと、
自分がここにいていいって
認められないような。

そんな感覚が
ずっとへばりついているんです。

価値を証明しようとすればするほど、苦しくなる構造

僕たちは、無意識のうちに
自分には価値が足りないから、
価値ある人間になりたい、と願い、
価値を生み出そうと
必死に行動し続けます。

これを僕は
「価値証明パラダイム」と
呼んだりしています。

でも、この構造ってすごく矛盾していて。

「価値がある人間になりたい」と
思っている間は、
皮肉なことに、いくら追いかけても
「自分には価値がない前提」のまま
行動してしまうんですよね。

だから、何か小さな結果が出ても
素直に喜べない。

これは当たり前にできることであって、
本当の価値を生む結果ではない、と
ハードルをどんどん
自分であげてしまう。

価値を生み出せなければ自己否定を重ね、
行動すればするほど
やっぱり俺には価値がないんだな、って
ネガティブループを
強化してしまうんです。

頭では
存在そのものに価値がある、
なんて言葉を理解できても、
僕たちの生存本能というか、
恐怖の感覚が
いやいや、役に立たないと
不要品として処理されちゃうぞ、と
全力で否定にかかってくる。

この体感と思考のギャップが、
僕たちをさらに苦しめるんですよね。

「誰の役にも立たなくてもやる」という、熱い動機

じゃあどうすればいいのかって言うと、
「誰の役にも立たなくてもいいから、
ただ自分がやりたいからやる」
って言い切ってみること。

でもこれ、僕にとっては
実はすごく怖いことなんです。

なぜなら、僕の中で
消そうとしてもなかなか消えない、
信念になってしまっていますから。

そんな時には、
本当に自由だったら
何をするかなって
想像してみるんです。

誰のためでもなく、
ただやりたいからやる自由。

動機なんて曖昧で、
「これが誰の役に立つか」なんて
全然わからなくても、
自然と手が動いてしまうのだとしたら。

それはもう、
理由がどうこうじゃなくて、
純粋に自分が「やりたい」
ってことなんだろうなって
思うんです。

成果のためでも、
マーケティングのためでも、
誰かに認めてもらうためでもなく、
ただ内側から湧き上がってくる
「やりたい」という
マグマみたいなエネルギー。

それを自分に許してあげることが、
次の一歩というか……
もう一段階、
自分が自由になるための鍵
なんじゃないかなって。

役に立つことを目的とする
「価値証明パラダイム」から、
ただやりたいことをやる
「絶対存在パラダイス」への
視点の切り替えですね。

ここはもう、
行ったり来たりでも
しょうがないかなと。

「何もしない」の中身を分けてみると、見えてくるもの

そもそも、「何もしない」をすべて
「悪」としたり「罪」としたりするのは、
少し認知が歪んでいるんじゃないか
とも思います。

よく考えてみると、
「何もしない」には
いくつか種類があるんですよね。

たとえば、

回復のための何もしない
(純粋な休息・充電)。

それから、逃避のための何もしない
(直面するのを避けるための先送り)。

そして、熟成のための何もしない
(アイデアが降ってくる前の余白)。

僕たちはつい、これらをすべて
「怠けている罪」として一括りにして、
自分を罰してしまいがちです。

でも、いまの「何もしない」は
どれに当てはまるのかな?と
少し引いた目でモニターしてみる。

それだけでも、
ちゃんとしないと、という
自動運転の罪悪感に、
少しだけブレーキがかかる。

そんな気がするんです。

おわりに: 手を動かしてしまう自分を、面白がってみる

僕がこうして発信している言葉や考え方が、
具体的に「誰の」「どんな悩みを」
解決するのかは、
正直はっきりとはわかりません。

でも、世界のどこかに、
過去の僕のように悩んでいたり、
モヤモヤしていたりして、
この言葉を必要としてくれる人がいて。

その人に、いつか届けばいいな……。
そんな淡い希望を持ちながら
活動しています。

僕たちって、生きていく中でつい
何の意味があるの?とか、
それ、お金になるの?とか、
分かりやすい結果を求めてしまいますよね。

でも、誰の役にも立たないかもしれないことに、
時間を忘れて没頭できるのって、
実はすごく贅沢で、
人間らしい瞬間なのかもしれません。

もしあなたのなかに、
なぜか止められない、とか
理由はないけど手を動かしてしまう、
っていう謎のこだわりがあったら。

それは無理に意味を持たせようとせず、
ひとまずそのまま、
面白がって続けてみるのも
いいんじゃないでしょうか。

あなたが持っている、
自分だけの純粋な動機。
ちょっと意識してみると、
何か面白い発見があるかもしれませんよ。

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